学校に行けないわけ(中学生)

 フラワーズではよく、「どうしてうちの子は学校に行けないのかしら?理由(わけ)が知りたい」という話になります。

私も初めのころは、「どうして?どうして?」と思いました。

何度もいろんな人と話す中で、「こうなんじゃないかな」?と思ったことをここに書きます。

 

 中学生の場合「どうして学校が嫌なの?」とか「どうしていけないの?」とか「理由は?原因は?」と尋ねたら、いじめや先生の不適切な対応などというお子さんもいますし、黙ってしまうお子さんもいます。

 

 13歳から15歳。精神的な発達。脳の発達。自分をとらえる、自覚する力の発達。それを表現する言語能力の発達などなどを考えて、どうも、中学生では、「なぜ自分は学校に行けないのか?行きたくないのか?」をとらえるのがまだまだ未熟で、無理なのではないでしょうか?発達段階については、幼児期よりも個人・個人の差、開きは大きくなっていますし、能力もたくさんの側面や種類がありますので、発達の早い子・遅い子がいます。一律に13歳~15歳だからできるとかできないとかと決められないのですが、どうも多くの中学生では、どうして学校に行けないのか?自覚できないように思います。

 

 親が、真剣に関心を向けてくれてるので、子どもも、「答えれるものなら、答えたい」と思ってる子が多いようですが、答えられません。ですから、問い詰めても、答えは出ません。問い詰められて答えられないことに子ども自身も傷ついてるように思います。「僕だってなんでいかれへんのかって思ってる、わからんのや!」って言える子もときどきいます。「わからない」と自覚できてるだけ、すごいと思います。   

 また、親の顔色を見て、親の納得することをいう子もいます。親の納得することを言えばもう問い詰められることから解放され、攻撃がやむ。自己防衛をしています。

 

不登校の理由

私(さくら)の個人的な考えなのですが、

 

不登校の理由には、大きく二つあると思うのです。

 

一つは、「学校が安心安全でないから」です。

マスローの基本的欲求の2段階目、「安心安全の欲求」が満たされてないので、

3段階目、「社会的帰属の欲求」が、発生しないのではないでしょうか?

 

わかりやすい例だと、いじめがある場合、学校に行くと攻撃されるので学校は安全でないし、安心もできない危険な場所になります。

そんな危険な場所、行きますか?ということです。

その子自身がいじめられてなくても、クラスの中でいじめが起きてると、それは戦闘地帯にいるのと一緒で自分の弾は飛んでこなくても、逃げたほうがいいと、その場所には足を踏み入れないほうがいいと判断するのは、おかしくないことだと思います。

 

ほかにも、「先生が支配的」とか、「授業でいつあてられるかわからない」「スクールカースト」があるとかの場合です。

 

学校の建物やカリキュラム事態に安全・安心を感じられず危険を感じてる場合。

 

たとえば、自閉症スペクトラムのお子さんで、音に敏感な場合。

チャイムの音が、頭に刺さるようにがんがんして、つらい。毎日何回も怖い思いをしてる。でも、みんな静かに耐えてるので、自分も耐えてるけど、すごく疲れる。

チャイムの音は、安心・安全ではない。危険だ。学校に行くのは危険だ。ということになる。

 

ほかにも、「トイレが汚い」「床のにおいが気になる」「運動場のホコリが嫌」「椅子が固い」「教室が明るすぎる」などなど。多くの人には想像もつかないことに、苦しさを感じてることもあるようです。

 

もう一つは、家ですることがあって、学校に行ってる場合じゃないというケース。

 

子どもにとって、母親は、自分を守ってくれる存在です。母親でなくてもいいのですが、誰かに、保護されてないと子どもは生きてはいけません。

 

その母親が、自分をしっかり守ってくれる状況にない場合、自分の生存をかけて、母親を守らねばなりません。もう、学校なんかに行ってる場合じゃないのです。生物学的本能から来る自己防衛だと思います。

 

たとえば、父親や祖父母がお母さんに暴力(たたく、けるはもちろん、嫌味を言うなども)をふるっている場合、自分を守ってくれるはずのお母さんは、よれよれのボロボロです。自分がなんとか、父親や、祖父母から、母親を守って、いつかは、自分を支えてくれる人になってもらわないといけないのです。そうしないと自分が、生きていくのが困難だから。

 

嫁姑問題、DV、お母さんがうつ病、薬物中毒、ギャンブル依存、酒びたりなど。お父さんがうつ病などの場合もお父さんのお世話で子どものお世話をしてくれない場合は、子どもはお母さんを助けて、いつか自分の世話もしてもらえるようにしたいと思っている。

 

ここで言う、「家ですること」とは、ゲームとかではなくって、「僕(私)が生きていくためには、まずお母さんを助けなければ!」ということです。